檸檬の無為な日々

思考の外部ストレージです。

感想『解放されたゴーレム 科学技術の不確実性について』

 こんな本を読みました。

 

 
 大変よい本でしたので、お時間ある方は是非ご一読下さい。
 
 コロナパンデミックになってからもう一年以上ですね。なにぶん初めての経験でしたから、分からないことがたくさんありました。去年は私は大学4年生でしたから、就活をしておりました。といっても地元就職を狙って東京や大阪には行ったことがないので、オンラインの説明会は楽でいいなぁくらいのものでした。そういう意味で、私はコロナパンデミックの当事者というには深刻さが足りないかも知れません。
 
 分からない、という状態に慣れている人はどれくらいいるんでしょうか。
 
 最も慣れている人達の中に研究者が挙げられるのは間違いないと思います。
 
 「え?先生達って色んなことを知っているのでは?」と思われた方がいらっしゃれば、確かに完了をみた問題についてたくさん知っていることは間違いないのだけど、進行中の問題については、そうとも限らないのです。
 
 なぁんだ、なんて思わないで下さいね。そうはいっても彼ら彼女らは専門化です。僕ら素人とは有している技術が違います。親知らずを抜くなら、藪医者でも歯医者に抜いてもらいたいものです。自分で抜こうなんて思いませんよね。
 
 なんだか、コロナの対応では、政治家が自分たちの利益のために専門化の意見を黙殺しているような気がしていたのですが、その構図もなんだかテレビジョンが編集したものなのかもしれないなぁなどと思います。
 
 メディアは僕らの心をざわつかせることでお金を儲けていますからね。
 
 不確実な現状で、僕ら素人ができることとは何でしょうね。僕は当事者としては深刻さが足りないから、見ています。何が正しかったのか明らかになるまで。岡目八目というやつですね。あぁ、傍観するんじゃないですよ。注意深く監視するんです。
 
 一応付記しておくと、別に政治家を批判したり、専門化を批判したり、メディアを批判したり、素人としての自分を卑下したかったわけではないです。自分の立場とできることの範囲、色んな立場の人との関わり方を考えるきっかけをこの本から頂きました。

すり切れた言葉に思うことなど

 梨木香歩さんのエッセイにサステナビリティという言葉を例にとって、時代が言葉を消費してしまうという危惧を綴った箇所がありました。それっぽい言葉で問題の核心を突いたような気になって、思考が上っ面で流されていき、数年後にその言葉を使っていると時代遅れと思われる、そんな言葉の使われ方です。

 

 私も、どちらかというとそれっぽい言葉が苦手です。環境問題なんて昔からあっただろうに、最近ではSDGsなんて言うそうですが。

 

 言葉の使われ方を研究する語用論という研究分野では、尊敬語や強調語は常に新しい形が作られ続けることが知られています。なぜかというと、ずっと同じ表現を使っていると言葉がすり切れてしまって敬意が伝わなくなったり、十分に強調ができていないと感じられるからです。

 

 上記のサステナビリティの例もこの現象だろうと思います。最近では緊急事態宣言という言葉もすり切れたのでは無いかと思います。だから蔓延防止措置という新しい言い方も作ったのでしょうね。

 

 ちょっと前まで、こういうそれっぽい言葉から一歩引いたところから「何言ってんだ、俺はそんな言葉に踊らされんぞ」というスタンスでいたのですが、言葉はそれっぽくて安っぽいかもしれないのですが、そこで指示されている問題は別にそれっぽくもないし安っぽくも無いということを失念しておりました。

 

 言葉のそれっぽさに食いつくまいとして、問題からも距離を置いてしまっていたので、それは本末転倒というか。「それっぽい言葉だ、パクッ」というのと「それっぽい言葉だ、サッ(逃)」というのは問題そのものから距離を取ってしまうという点ではあまり変わらないじゃ無いかと思いまして。情けない話です。

 

 きっと、問題を過去のことにしないために語り直している人がいると、そう思いました。

言葉は言い尽くせない

(1) The Cat jumped over the wall.

                                                                 Vyvyan Evans Cognitive Linguistics A COMPLETE GUIDE p8より

 今回はこの一文から話を始めたいと思います。仮にに日本語に訳してみると、上の文は「猫は壁を飛び越えた」という具合になるかと思います。今回は英語についての話をするので、この日本語訳は参考程度にお考え下さい。議論の流れは、Vyvyan Evans のCognitive Linguistics A COMPLETE GUIDEに沿っています。

 恐らく、この文を呼んだ皆さんは次のようなイメージを思い浮かべたのではないでしょうか。

f:id:Ikarin:20210224150258p:plain

ibid:p8より

では、質問です。"猫の飛んだ軌跡は弧を描く"という情報は(1)のどこに書いてあったでしょうか。例えば、単にjumpという動詞に注目すると、こんな解釈もアリなんじゃないでしょうか?

f:id:Ikarin:20210224151427p:plain

ibid:p8より

 例えば、「猫がテーブルに飛び移った」という文でしたら、(a)のような解釈が自然な気がします。同様に、(b)はトランポリンなどをjumpするとこんな感じの軌跡になりそうです。(c)はスカイダイビングなどを考えるといいかもしれません。

 ここから分かるのは、jumpという動詞は、猫の飛ぶ軌跡を指定しないということです。

 では次に"over"が猫の飛ぶ軌跡を指定している可能性を検討してみましょう。すると、jump同様、overも曖昧であることが分かります。例えば、"We walked over the bridge."(私たちは橋を渡った)における"over"は概ね"across"と同じ軌跡を指定します。また、"hummingbird is over a flower."(ハチドリが花の上にいる)における"over"はaboveに相当します。これらの例からもoverという語がかなり多様な空間情報を伝えるのに使うことができることが分かりますね。

 くどいようですが、(1)の文についてさらに考えてみると、猫が飛び始めた位置のちょうど反対側に着地したことがイメージされますが、それを指定するような言語要素は明示的には(1)の文の中には含まれていません。

 さて、この話から導き出せるのは、言葉自体はほどほどに意味を伝えてくれるのであって、その言葉から我々が喚起する概念に対しては部分的にしか関与していない、ということです。  言い方を変えれば、言葉は我々が構築するイメージに対して、足場を提供してくれるに止まり、あくまでも私たちが、猫や壁、あるいは軌道を生み出す重力との関係などの知識、また発話されている文脈などなどを補い(1)のイメージを構築しているということでもあります。

 さて、Evansの議論を追うのはここまでにしておいて、この話を材料にTwitterなどSNSにおけるコミュニケーションについてちょっとだけ考えてみます。対面のコミュニケーションにおいては、言葉の意味もそうですが、対話する人との親しさ、視線、表情、身振り手振り、会話の文脈、会話の行なわれている時と場所など様々な情報を補ってやりとりをしています。一方、SNSにおけるやりとりは、専ら言葉によって為されています。

 ところが、先ほど見たように言葉は私たちが思っているほど、伝えたいことを言い尽くしているわけではありません。私はこれが日本語が読めない日本人がたくさん出現してしまう原因なのではないかと思います。SNSにおいては言葉以外の手掛かりが大変不足している場合があるのではないでしょうか。

 そのため、「あなた、日本語が読めないんですか?」といった批判は、「あなたは恐らく私の文脈を理解されていない」というのが実体に則した批判であり、「こいつの言っていることはおかしい」と言う前に、「この人はどんな文脈で話しているのか」と踏み止まってみることが、よりよりSNSでのコミュニケーションに繋がるのではないでしょうか。

  きっとTwitterで日本語が読めない日本人などいませんよ、あんなに短い文章なんですから。多分、読めていないのはその人の頭の中です。そして、頭の中を覗くには、言葉はあまりに口数が少ないのです。

大学でそこそこ真面目に勉強した人間が語る勉強の基本

 今回は、そこらへんの学部生よりは真面目に勉強した自負がある私が、勉強の方法についてお届けしたいと思います。勉強にも色々なタイプの勉強があるかと思いますが、資格の勉強や語学の勉強というより、大学でやるような学問的な勉強について焦点を当てようと思います。ポイントは2つだけです。(筆者の学部は人文系です。社会科学や自然科学は勝手がよく分からないので参考程度に)

1.たくさん本を読みましょう

 1つ目のポイントはとにかくたくさん本を読むことです。勉強の基本は間違いなく読書です。学び始めは、読んでいて分からない部分もたくさんあると思いますが、気にせずたくさん読みましょう。読み続けていれば、もう一度手に取ったときに、分かる箇所が増えていると思います。

 昨今はアウトプットの重要性が説かれます。資格や語学の勉強だと、それも納得という感じですが、大学でやるような学問的な勉強では、私はアウトプットはそんなに重要ではないのではないかと思います。理由は2つあります。1つ目は例えば、実際に入門書をアウトプットしようとしてみれば分かるかと思うのですが、情報量が馬鹿多いです。無理。その本の内容を定着させたいなら、別の本を読むなどして少し期間を空け、もう一度その本を読んだ方がいいと思います。2つ目は、参考書1冊だけ、ないし少数の書籍で勉強の目的が完結する(大学受験・資格の勉強とか)という場合は、アウトプットも大事だと思うのですが、大学でするような学問的な勉強では、入門書すら複数冊を読み比べた方がよいと思うからです。同じ概念でも、筆者によって書き方が違うおかげで理解がしやすい、よく分からないということがあります。そして同じ入門書というくくりでも、その分野の考え方や知識を網羅的に1冊で説明し尽くしているという本もなかなかありません。(どうしてもアウトプットが、という人は心配なさらず、自分が面白いと感じている分野を勉強すると、身近な人に話したくなるので、勝手にアウトプットされます)

 2.本は買いましょう

 2つ目のポイントは本は借りずに買うということです。この辺は優先順位の問題かもしれませんが、勉強の優先順位が高いなら、買った方がいいと思います。理由は、いくつかありますが、一番大きいのは、いつでも見返せるということです。今読んでいる本の内容で、「あれ?これあの本にはどう書いてあったかな?」とか「前読んだあの本に関係してそうなことがあった気がするんだけど」とか、昔に読んだ本の内容が気になることが出てきます。また、2度3度と繰り返し読む価値のある本というのはたくさんあります。いちいち借りに行く手間を考えると、買ってしまう方がいいと思います。あと本棚が格好よくなります。

 とはいっても専門書は高いので、私はブックオフオンラインで中古入荷のメールが届くようにしてある本もたくさんあります。(もちろん新品も買いますが)

3.まとめ

1つ目のポイント・・・とにかくたくさん読む・インプットが基本(自分が気になるテーマだけまとめるとかはありかな、網羅的にアウトプットしようとするのは、多分きつい)

 2つ目のポイント・・・本は買う。少しずついい本棚を作っていく。

 

最後まで読んでくれてありがとうございます。少しでも勉強に悩んでる人の力になれたら嬉しいです。

”愛してる”は照れくさい-バレンタインチョコが照らすコミュニケーションの姿-

今回は、オススメの本を紹介します。

 作家の小川洋子さんと、生物学者岡ノ谷一夫さんの対談を収録した本です。面白かった話をほんのちょっとだけ紹介するので、気になった人は是非。

 

愛の儀式

 みなさん、白鳥はご存じだと思うのですが、彼らは一夫一妻制の鳥です。しかも結構厳しい。おしどり夫婦なんて言いますが、おしどりは結構浮気するらしいですね。

 小川さんが白鳥を見に行ったとき、ペアになった白鳥同士が、動作をそろえて首を振りつつ、鳴き合い続けているのを見たそうです。鳥がなぜ鳴くのかというと、求愛のためというのが1つの理由なのですが、ペアになっているのに鳴く必要があるの?という疑問が生じますよね。

 一夫一妻制の鳥というのは、子育てのコストが高いのだそうで、相手に浮気なんかをされるとたまったものではない、ということらしく。つまり、「あなた、わたしのこと愛してるわよね?」「ああ、もちろん、お前も俺のこと愛してるよな?」「ええ、もちろん、さっきも確認したけど、私のこと愛してるわよね?」以下無限ループ、という感じで、鳴き続けているようなのです。(私の知っている例では、ペンギンが一夫一妻制の鳥ですね、周りの環境が過酷なので、浮気相手を探すより、ずっとペアを維持した方が子供を残せるという話を聞いたことがあります)

 ここで、小川さんが、”白鳥夫婦の動きがあまりにシンクロしている”という点を話題にされます。岡ノ谷先生は、それは”儀式化された行動”なのだと説明されます。儀式化というのは、最初は何かの目的があったのだけど、やがて目的が消失し、行動そのものが目的になってしまうという現象です。

 他に儀式化された行動で言うと、”威嚇”が挙げられるそうです。噛みつく気はないけど、口を開けてみせるとか。人間で言うと、バレンタインのチョコも儀式化された行動に該当するそうです。岡ノ谷先生はバレンタインのチョコについて次のように仰っています。

あれは完全に儀式ですよね。「愛を伝達したい」という意図を伝達している。裏返せば伝達されるべき愛の「内容」は実はもうなくなっているんですね(笑)

 白鳥はサボらず「愛を伝えたい」という意図を伝えているのに、人間はサボってるかもしれない、結婚して長くなると「愛してる」なんて言わなくなってきますよね。欧米では”I love you”と日本に比べて気軽に言い合ってるのは儀式化が成功しているからかもしれないと、小川さん。この点について、岡ノ谷先生は重要な指摘をされます。

コミュニケーションっていうのは必ずしも内容を伝えているわけではないということなんです。むしろ「コミュニケーションする意図自体」をコミュニケーションしている、ということなんです。

 この指摘は、私が大学でコミュニケーションの勉強をしたときにも、同様の指摘を本で読んだことがあります。内容ではなく、コミュニケーションしている事実をコミュニケートしているという趣旨のことが書いてありました。

  さて、2月も近くなりましたが、バレンタインの時にはこの話を思い出してみて下さいね。あと、やっぱり「愛してる」は照れくさいですね。

それ僕の責任ですか?ーぼやきシリーズ①ー

1.ぼやきシリーズとは?

 Twitterでつぶやくには長いけど、ブログの記事として書くほどには、問題提起らしい問題提起もないし、解決策も提案できない。それでもモヤモヤしてることを書いていきます。

2.特定の文化的・世代的価値観を持つこと自体が罪なのか?

 確か韓国の映画だったと思うのですが、女性の生きづらさを描いて話題になったものがあったと思います。その中に登場する夫婦の夫のセリフに「育児を手伝う」というものがあって、「手伝うって何よ!基本は私がするの?!」みたいな返答がある、というシーンがあった気がするのです。(間違ってたらすみません)

 男性も育児に参加していくのが普通というのが、昨今の潮流ですし、それ自体はとてもいいことだと思うのです。

 ただ、「女性が育児の主体である」という邪悪な考え方を持っていることそのものが、男性の持つ罪業である、というような主張にまで持っていくのは賛同しかねます。

 これまで女性が育児の主体であるという考え方が、文化的に共有された過去が確かにあるのです。そして、人間は一般的に生まれ落ちた文化や世代の価値観の影響を受けながら成長していくものです。

 現代の男性も、好きでそのような価値観が席巻している世の中に生まれたわけではないのです。極めて自然に、また悪意無く、そういった価値観が普通だと思っているのです。しつこいようですが、誤解しないで頂きたいので、こういった価値観の中では生きづらい女性がいるから、これから価値観を変えていけたらよいね、という意見には賛成なのです。私が言いたいのは、その旧世代的価値観を持っていること、あるいは持ってしまったこと自体に責任のようなものを要求されるのはお門違いだということです。

 別の例をあげましょう。会社の中でも独特の規範が存在していると思います。例えば、「先輩より先に帰るなんてとんでもない」とかね。例えば労働法の法規範とか、経営上の合理性や、人権などの観点から、そういった規範が非人道的で、非合理的で、擁護の余地がない、ということになれば、それを変えようというのは自然な流れだろうと思います。

 つまり、彼らは間違っていたのです。規範の合理性を判断する様々な基準からして。

 では、間違っていたこと、それ自体は罪でしょうか。私はそうは思いません。こうした特定の文化的・世代的価値観を持っていたこと自体を責めるのは、そうした価値観が、「生まれ、定着し、共有された歴史・過程をもつ」という特性を端的に無視している。我々はたまたま、いずれかの価値観の下に生まれ落ちる生物なのですから。

 極端な例を挙げましょう。日本は昔、戦争をしたことがあります。現代では戦争は人の命を奪い、貧困をもたらす、極めて非人道的な行いであるという価値観があると思います。では、過去、戦争に突き進むべきだという価値観の中で育ち、そういった価値観を内在化した人間を、あるいはそういった非合理的な価値観を内在化してしまったこと自体を責めるのは妥当なことでしょうか。私はそうは思いません。なぜなら彼らには自分が生まれ落ちる共同体が持つ価値観について選択の自由はなかったはずだと思うからです。

 もちろん、"意図的に間違い続ける"のは間違いなく愚かです。ですが、”間違うこと”や”間違い続ける”ことを私は愚かであるとは思えません。あくまで"意図的に間違い続ける"ことは愚かであるというスタンスでいます。つまり、自分は間違っているなと自覚していながらそのまま間違い続けるのは馬鹿だと言う意味で、単に間違ったり、間違い続けているだけなら、その人を馬鹿と呼んではいけないということです。

 なので、私は「先輩より先に帰るなんてとんでもない」と考えていて、その考えが正しいと信じている人のことを責める気にはなれません。自分で間違っていると思うなら、直せよとは思いますが。

 私は23歳ですが、自分がもし40代・50代になったとき、果たして、これが私たちの普通だったという感覚に依拠することなく、若い世代の価値観に向き合えるのかということに自信が持てない。

 きっと私も未来の若者に糾弾されるような価値観を担って生き、とんでもない考えをした人間もいたものだと、嘲笑されながら死んでいくだけです。

英語のここがわからないー英語に関わった全ての人に捧ぐー

1.導入 筆者の英語能力について

 今回は筆者の経験から、英語のここがわけわからん、ということをつらつら書いてみようと思います。「それ!分かる!」と共感してもらったり、英語教育に関わる人の目にとまって「あぁ、こういう所がわからんのね」と参考にしてもらえれば最高です。

 筆者は、受験英語はそこそこできる、くらいの英語力です。(センター英語は150点)実践的な能力は皆無。ちなみに中学の時の英語力がしょぼかったため月の名前とかオーストラリアを正しく綴れません(笑)

 (注意)これから書くことは当時を振り返ってみると、こういうことが分かってなかったなぁという回想で書いているので、当時の私にそれを意識的に伝える力があったことを保証しません。

2.躓きの石①語順

 最初の疑問はこれ

"This is an apple."

「え、"This an apple is."じゃなくて?」

be動詞は「~です」に相当すると習いますね。そうです、なぜ文末に来ないのか心底不思議でした。そもそも言語の語順にバリエーションがあるということが当時の私には分かっていませんでした。

 日本語は助詞(「が」とか「を」など)を使っているので、語順が割と自由です。それに対して英語は語順が意味を担っている面があるので、この違いが分かってないとそもそもなぜ英語がそこまで語順に拘泥するのか理解できないのではないかと思います。

3.躓きの石②be動詞(原型)

 am/is/areの原型はbeであると習いますね。これは原型という言い方の問題かもしれませんが、シンプルに原型に見えない。いや、"likes"の原型が"like"というのは分かる。でもamの原型がbeだと言われても「嘘やろそれ」という感じでした。なので中学当時の私はbe動詞がいったい何なのか分かっていませんでした。

 一般動詞とbe動詞が区別されますが、「なんで区別してるんだ?」と思っていました。be動詞は「~です」に対応するのだということと、be動詞と一般動詞は一文の中には基本的に共存できないことを習うかと思うのですが、日本語では「本を読みます」とか「あなたが好きです」って言いますよね。なので、be動詞のことを丁寧さに関する何かと勘違いしていた記憶があります。

4.躓きの石③未来形

 過去形が動詞の変化で表されるので、未来形も動詞の後ろに何かをくっつけると未来形になると思っていました。ところが、willとbe going toの使い分けの問題が発生します。なんで過去形は1種類しかないのに未来形は2種類もあるん?

 言語学的には英語の時制は現在と過去だけですから、今では未来形と呼んでいたものがモダリティという別の文法だというのは分かるんですが、多分中学生とかには逆に混乱させそうで、こういう説明はできないよなぁと思います。フランス語とかは未来形も動詞の変化で表します。こっちは本当の時制としての未来形です。

5.躓きの石④進行形

 進行形は「~ている」に相当すると習うと思います。そして同じ時期に状態動詞は進行形にできないということも習った気がします。そのため"be knowing"などはNGになります。でも、「"知っている"って言うやんけ!」というのが当時の私の心の叫びです。 

 ただ、日本語の「ている」は進行以外の意味があるし、動詞のアスペクトの文法は英語と日本語で差があるので、これは個別言語の違いとして理解しなくてはいけません。アスペクトというのは動詞の表す行動の様態を示す文法要素のことをいいます。時制のことをテンスと呼びますが、これとは別の文法カテゴリーになります。また、進行以外の意味というのは、例えば”財布が落ちている”の「ている」は"結果の継続"などと呼ばれている用法です。

6.躓きの石⑤完了形

 完了形にはいくつか用法があると習いますよね。永遠の謎とされているのが、完了形の継続用法です。いや、完了してるのに継続を表すってなに?

 そして、完了形は"~てしまった"と訳すように指導されることがありますが、"~た"じゃだめなん?大体同じじゃん檸檬少年のこの指摘は実はもっともなことで、日本語の「~た」は英語で区別している完了と過去の意味を一手に引き受けているのです。(言語学の用語で言うと、過去のテンスと完了のアスペクト、両方を表せる)

7.まとめ 日本人として英語に関わる全ての人へ

 英語への関わり方は人それぞれだと思います。海外で仕事をしている人、将来への投資として英語を勉強している人、自分の子供が学生で英語の勉強をしている人、洋楽を聴くのが好きな人、教員として英語を教えている人。

 ただ、どの人も一度でいいから実践的な目的に用いる道具としてではなく、ただの言葉として、言葉そのものの性質に今一度、目を向けて欲しいなというのが私の願いです。それは日本語も英語もどちらもです。今まで書いてきたような疑問に共感してくれた方なら多かれ少なかれ楽しめる部分があると思います。

 日本語を通して見える英語の姿があり、英語を通して見える日本語の姿があります。道具として言語を用いるとき、その道具の性質を知っていることがどうして無駄になるでしょうか。最近は、「文法など気にせずとにかくしゃべればいい」という意見も散見されますが、それは本当に言いたいことを伝え、言われたことを理解できているといえるでしょうか。

 また母語は無意識の知識です。我々は日本語を確かに使えてはいますが、その性質をどこまで知っているでしょうか。例えば「日本語は曖昧な言語だ」などと言われ、その特殊性がもてはやされることもありますが、言語学を勉強した身としては、その主張は自明ではないと言わざるを得ません。

 道具としての言葉ではなく、言葉としての言葉に目を向けてみませんか?

 そこまで言うなら少し勉強してやってもいいぞという方がいらしたら次の書籍をオススメします。言語学を学んだことのない人でも読めるように書いてくれている文献です。

 最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。以下のページに私が過去に読んだ文献をまとめています。気になるタイトルがあれば、そちらも手に取ってみて下さい。