檸檬の無為な日々

思考の外部ストレージです。

すり切れた言葉に思うことなど

 梨木香歩さんのエッセイにサステナビリティという言葉を例にとって、時代が言葉を消費してしまうという危惧を綴った箇所がありました。それっぽい言葉で問題の核心を突いたような気になって、思考が上っ面で流されていき、数年後にその言葉を使っていると時代遅れと思われる、そんな言葉の使われ方です。

 

 私も、どちらかというとそれっぽい言葉が苦手です。環境問題なんて昔からあっただろうに、最近ではSDGsなんて言うそうですが。

 

 言葉の使われ方を研究する語用論という研究分野では、尊敬語や強調語は常に新しい形が作られ続けることが知られています。なぜかというと、ずっと同じ表現を使っていると言葉がすり切れてしまって敬意が伝わなくなったり、十分に強調ができていないと感じられるからです。

 

 上記のサステナビリティの例もこの現象だろうと思います。最近では緊急事態宣言という言葉もすり切れたのでは無いかと思います。だから蔓延防止措置という新しい言い方も作ったのでしょうね。

 

 ちょっと前まで、こういうそれっぽい言葉から一歩引いたところから「何言ってんだ、俺はそんな言葉に踊らされんぞ」というスタンスでいたのですが、言葉はそれっぽくて安っぽいかもしれないのですが、そこで指示されている問題は別にそれっぽくもないし安っぽくも無いということを失念しておりました。

 

 言葉のそれっぽさに食いつくまいとして、問題からも距離を置いてしまっていたので、それは本末転倒というか。「それっぽい言葉だ、パクッ」というのと「それっぽい言葉だ、サッ(逃)」というのは問題そのものから距離を取ってしまうという点ではあまり変わらないじゃ無いかと思いまして。情けない話です。

 

 きっと、問題を過去のことにしないために語り直している人がいると、そう思いました。