檸檬の無為な日々

思考の外部ストレージです。

努力か才能か論争をしてみて

1.導入

 私も、友人と努力か才能か論争をしてたことがあります。みなさんも一回くらいはあるのではないでしょうか。

 今回は努力か才能か論争をしてみて私の考えたことを紹介します。たまたまピンカーの『21世紀の啓蒙』を読んでいたら似たような考えをしている人がいるらしいことが発覚したので、併せて紹介します。

2.結論

 私の「人は努力か才能か」という問いに対する結論は、そんなものは心理学か生物学などを勉強すればよい、というものです。

 もともと私は、努力サイドにたっていました。ただ、才能サイドの友人の話を聞くと、説得力のある根拠に基づいたものでした。しかし、自分で結構自分が努力してきて、それで今の状態があると思っていたので、うーんという感じになってしまいました。

 そこで、私はおかしな考えをしていることに気付きました。これは「人は努力か才能か」という問いに対して答えを出そうとしているのではなく、どっちを信じて生きていたいかということを言い合っているだけでは?ということです。科学的に事実を知りたいのであれば、私たちの経験則より積み重ねられている科学的知見の方を参照すべきです。しかし、明らかに私たちはそういう文脈で論争をしているのではありませんでした。つまり、この問題は科学的事実の問題ではなく、単にイデオロギーの問題だったのです。

3.何のために信念を表明するか?

 ピンカーの『21世紀の啓蒙』(下)p242から、ダン・カハンという人の議論が参照されています。(孫引きがよくないのは重々承知ですが)

 それによると、「人が何らかの信念を肯定したり否定したりするのは、自分が何を知っているかではなく、自分が何者かを表明するため」だとされています。また、自分がどういう信念を持つかということは所属する手段のメンバーからどんな人物だと思われるかということに密接な関わりを持つことも指摘されています。一風変わった考えを披露するときは、ドン引きされたりしないかなとか心配しますよね。

 つまり先ほどの議論は、自分が何を考えているかを明らかにするというのは、自分がどんな人物かというアイデンティティの問題に密接に関連するということです。最初の例に戻れば、私は努力論を信じてきたから、世界をそれに則した形で理解しなくては自身のアイデンティティを保つことが難しくなるということです。

 それ故、努力か才能か論争についての私の結論は心理学か生物学などを勉強すればよいとなりました。私の経験した議論の形式として、この問題は事実に関してではなく、信条について揉めていたことになります。でも、信条はその人の自由ですから、他人がとやかく言うことではありません。

4.議論についての教訓

 今回のできごとを経験して、議論をする時に次のことに注意しないといけないと学びました。それは、自分も相手も何のために自分の意見を正当化しようとしているのかを意識するとよいということです。つまり、自分がその意見を通すことで何を可能にしようとしているかということを一度考えてみるといいかもしれないということですね。

 私の場合はお互いがお互いの信条を保つという目的を持っていたことになります。それはそもそも共通の目的に対して議論を展開しているわけなので、平行線になってしまいました。

 

今回は以上になります。最後まで読んで頂きありがとうございました。