檸檬の無為な日々

思考の外部ストレージです。

それ僕の責任ですか?ーぼやきシリーズ①ー

1.ぼやきシリーズとは?

 Twitterでつぶやくには長いけど、ブログの記事として書くほどには、問題提起らしい問題提起もないし、解決策も提案できない。それでもモヤモヤしてることを書いていきます。

2.特定の文化的・世代的価値観を持つこと自体が罪なのか?

 確か韓国の映画だったと思うのですが、女性の生きづらさを描いて話題になったものがあったと思います。その中に登場する夫婦の夫のセリフに「育児を手伝う」というものがあって、「手伝うって何よ!基本は私がするの?!」みたいな返答がある、というシーンがあった気がするのです。(間違ってたらすみません)

 男性も育児に参加していくのが普通というのが、昨今の潮流ですし、それ自体はとてもいいことだと思うのです。

 ただ、「女性が育児の主体である」という邪悪な考え方を持っていることそのものが、男性の持つ罪業である、というような主張にまで持っていくのは賛同しかねます。

 これまで女性が育児の主体であるという考え方が、文化的に共有された過去が確かにあるのです。そして、人間は一般的に生まれ落ちた文化や世代の価値観の影響を受けながら成長していくものです。

 現代の男性も、好きでそのような価値観が席巻している世の中に生まれたわけではないのです。極めて自然に、また悪意無く、そういった価値観が普通だと思っているのです。しつこいようですが、誤解しないで頂きたいので、こういった価値観の中では生きづらい女性がいるから、これから価値観を変えていけたらよいね、という意見には賛成なのです。私が言いたいのは、その旧世代的価値観を持っていること、あるいは持ってしまったこと自体に責任のようなものを要求されるのはお門違いだということです。

 別の例をあげましょう。会社の中でも独特の規範が存在していると思います。例えば、「先輩より先に帰るなんてとんでもない」とかね。例えば労働法の法規範とか、経営上の合理性や、人権などの観点から、そういった規範が非人道的で、非合理的で、擁護の余地がない、ということになれば、それを変えようというのは自然な流れだろうと思います。

 つまり、彼らは間違っていたのです。規範の合理性を判断する様々な基準からして。

 では、間違っていたこと、それ自体は罪でしょうか。私はそうは思いません。こうした特定の文化的・世代的価値観を持っていたこと自体を責めるのは、そうした価値観が、「生まれ、定着し、共有された歴史・過程をもつ」という特性を端的に無視している。我々はたまたま、いずれかの価値観の下に生まれ落ちる生物なのですから。

 極端な例を挙げましょう。日本は昔、戦争をしたことがあります。現代では戦争は人の命を奪い、貧困をもたらす、極めて非人道的な行いであるという価値観があると思います。では、過去、戦争に突き進むべきだという価値観の中で育ち、そういった価値観を内在化した人間を、あるいはそういった非合理的な価値観を内在化してしまったこと自体を責めるのは妥当なことでしょうか。私はそうは思いません。なぜなら彼らには自分が生まれ落ちる共同体が持つ価値観について選択の自由はなかったはずだと思うからです。

 もちろん、"意図的に間違い続ける"のは間違いなく愚かです。ですが、”間違うこと”や”間違い続ける”ことを私は愚かであるとは思えません。あくまで"意図的に間違い続ける"ことは愚かであるというスタンスでいます。つまり、自分は間違っているなと自覚していながらそのまま間違い続けるのは馬鹿だと言う意味で、単に間違ったり、間違い続けているだけなら、その人を馬鹿と呼んではいけないということです。

 なので、私は「先輩より先に帰るなんてとんでもない」と考えていて、その考えが正しいと信じている人のことを責める気にはなれません。自分で間違っていると思うなら、直せよとは思いますが。

 私は23歳ですが、自分がもし40代・50代になったとき、果たして、これが私たちの普通だったという感覚に依拠することなく、若い世代の価値観に向き合えるのかということに自信が持てない。

 きっと私も未来の若者に糾弾されるような価値観を担って生き、とんでもない考えをした人間もいたものだと、嘲笑されながら死んでいくだけです。