檸檬の無為な日々

思考の外部ストレージです。

英語のここがわからないー英語に関わった全ての人に捧ぐー

1.導入 筆者の英語能力について

 今回は筆者の経験から、英語のここがわけわからん、ということをつらつら書いてみようと思います。「それ!分かる!」と共感してもらったり、英語教育に関わる人の目にとまって「あぁ、こういう所がわからんのね」と参考にしてもらえれば最高です。

 筆者は、受験英語はそこそこできる、くらいの英語力です。(センター英語は150点)実践的な能力は皆無。ちなみに中学の時の英語力がしょぼかったため月の名前とかオーストラリアを正しく綴れません(笑)

 (注意)これから書くことは当時を振り返ってみると、こういうことが分かってなかったなぁという回想で書いているので、当時の私にそれを意識的に伝える力があったことを保証しません。

2.躓きの石①語順

 最初の疑問はこれ

"This is an apple."

「え、"This an apple is."じゃなくて?」

be動詞は「~です」に相当すると習いますね。そうです、なぜ文末に来ないのか心底不思議でした。そもそも言語の語順にバリエーションがあるということが当時の私には分かっていませんでした。

 日本語は助詞(「が」とか「を」など)を使っているので、語順が割と自由です。それに対して英語は語順が意味を担っている面があるので、この違いが分かってないとそもそもなぜ英語がそこまで語順に拘泥するのか理解できないのではないかと思います。

3.躓きの石②be動詞(原型)

 am/is/areの原型はbeであると習いますね。これは原型という言い方の問題かもしれませんが、シンプルに原型に見えない。いや、"likes"の原型が"like"というのは分かる。でもamの原型がbeだと言われても「嘘やろそれ」という感じでした。なので中学当時の私はbe動詞がいったい何なのか分かっていませんでした。

 一般動詞とbe動詞が区別されますが、「なんで区別してるんだ?」と思っていました。be動詞は「~です」に対応するのだということと、be動詞と一般動詞は一文の中には基本的に共存できないことを習うかと思うのですが、日本語では「本を読みます」とか「あなたが好きです」って言いますよね。なので、be動詞のことを丁寧さに関する何かと勘違いしていた記憶があります。

4.躓きの石③未来形

 過去形が動詞の変化で表されるので、未来形も動詞の後ろに何かをくっつけると未来形になると思っていました。ところが、willとbe going toの使い分けの問題が発生します。なんで過去形は1種類しかないのに未来形は2種類もあるん?

 言語学的には英語の時制は現在と過去だけですから、今では未来形と呼んでいたものがモダリティという別の文法だというのは分かるんですが、多分中学生とかには逆に混乱させそうで、こういう説明はできないよなぁと思います。フランス語とかは未来形も動詞の変化で表します。こっちは本当の時制としての未来形です。

5.躓きの石④進行形

 進行形は「~ている」に相当すると習うと思います。そして同じ時期に状態動詞は進行形にできないということも習った気がします。そのため"be knowing"などはNGになります。でも、「"知っている"って言うやんけ!」というのが当時の私の心の叫びです。 

 ただ、日本語の「ている」は進行以外の意味があるし、動詞のアスペクトの文法は英語と日本語で差があるので、これは個別言語の違いとして理解しなくてはいけません。アスペクトというのは動詞の表す行動の様態を示す文法要素のことをいいます。時制のことをテンスと呼びますが、これとは別の文法カテゴリーになります。また、進行以外の意味というのは、例えば”財布が落ちている”の「ている」は"結果の継続"などと呼ばれている用法です。

6.躓きの石⑤完了形

 完了形にはいくつか用法があると習いますよね。永遠の謎とされているのが、完了形の継続用法です。いや、完了してるのに継続を表すってなに?

 そして、完了形は"~てしまった"と訳すように指導されることがありますが、"~た"じゃだめなん?大体同じじゃん檸檬少年のこの指摘は実はもっともなことで、日本語の「~た」は英語で区別している完了と過去の意味を一手に引き受けているのです。(言語学の用語で言うと、過去のテンスと完了のアスペクト、両方を表せる)

7.まとめ 日本人として英語に関わる全ての人へ

 英語への関わり方は人それぞれだと思います。海外で仕事をしている人、将来への投資として英語を勉強している人、自分の子供が学生で英語の勉強をしている人、洋楽を聴くのが好きな人、教員として英語を教えている人。

 ただ、どの人も一度でいいから実践的な目的に用いる道具としてではなく、ただの言葉として、言葉そのものの性質に今一度、目を向けて欲しいなというのが私の願いです。それは日本語も英語もどちらもです。今まで書いてきたような疑問に共感してくれた方なら多かれ少なかれ楽しめる部分があると思います。

 日本語を通して見える英語の姿があり、英語を通して見える日本語の姿があります。道具として言語を用いるとき、その道具の性質を知っていることがどうして無駄になるでしょうか。最近は、「文法など気にせずとにかくしゃべればいい」という意見も散見されますが、それは本当に言いたいことを伝え、言われたことを理解できているといえるでしょうか。

 また母語は無意識の知識です。我々は日本語を確かに使えてはいますが、その性質をどこまで知っているでしょうか。例えば「日本語は曖昧な言語だ」などと言われ、その特殊性がもてはやされることもありますが、言語学を勉強した身としては、その主張は自明ではないと言わざるを得ません。

 道具としての言葉ではなく、言葉としての言葉に目を向けてみませんか?

 そこまで言うなら少し勉強してやってもいいぞという方がいらしたら次の書籍をオススメします。言語学を学んだことのない人でも読めるように書いてくれている文献です。

 最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。以下のページに私が過去に読んだ文献をまとめています。気になるタイトルがあれば、そちらも手に取ってみて下さい。