檸檬の無為な日々

思考の外部ストレージです。

「結婚することになったよ」「なったんじゃなくてすることに決めたんでしょう」

1.導入

 俵万智さんの歌にこんなのがありまあす。

 

「結婚することになったよ」「なったんじゃなくてすることに決めたんでしょう」

                    (俵万智(1997)『チョコレート革命』:「水に書く文字」より)

 日本語母語話者の身からすると、「結婚することになった」というのは非常に自然な言い方です。

 英語では何というのでしょうか?

"We are getting married."

                      (池上嘉彦(2006)『英語の感覚・日本語の感覚』より)

 日本語に訳せば、「私たちは結婚します」となります。間違ってはいないですが、どこかぎこちないですよね。こういった違いは、好まれる言い回しの問題です。今回は上記の池上(2006)を紹介し、言葉の違いに興味を持って頂ければいいなと思い、記事にしました。私は実践的な用途で英語を活用する機会は少ない人間ですが、別に英語を使わなくても、日本語と英語の違いは言語として面白い現象なのだということを知って頂ければと思います。

2.「結婚することになる」における「なる」の敬語的性質

 池上(2006)では、この「なる」について次のような説明をしています。(強調は檸檬)

実際には行為者の意図に基づいての行為であっても,あたかもことが当事者の意図を超えたところでの<成り行き>でそのように運んでしまったという意味合いになり・・・当事者の主体性を薄める

そして、この当事者の主体性を弱めるという効果が、敬語表現として活用されていることが述べられています。例えば次のような例です。(強調は檸檬)

天皇は自ら杉の苗をお植えになりました。

お殿様のお成り

全部で2000円になります

 このように日本語の言い回しと英語の言い回しの差に着目することで、両方の言語がどのような言い回しを好み、それぞれの言語でどのような動機をもって用いられているのかが分かることがあります。 

 他にはどんな違いがあるのでしょうか。引き続き池上(2006)を見ていきます。

3.BE言語とHAVE言語

 次のような例を見てみましょう。(強調は檸檬)

"I have two children."

「(私には)子どもが2人います。」

"This room has two windows."

「この部屋には窓が2つあります。」

  これらの例を見ると、日本語は<所有>を意味するときに、存在動詞「いる」「ある」を用いていることがわかります。それに対して、英語の方は、<存在>の意味にも"have"を使っていることが分かりますね。

 つまり、日本語は<存在>を表す表現が<所有>を表すのにも用いられているのに対して、英語は<所有>を表す表現が<存在>を表すのにも用いられているということです。池上(2006)はこうした対立をBE言語とHAVE言語の違いとして捉えています。

 4.そのほか、興味深い違い

 このほかにも日英語の違いは様々なものがあります。例えば

"I see several stars."

「星がいくつか見える。」

"I was surprised at the news."

「知らせを聞いて驚きました。」

"Where am I?" 

「ここはどこですか?」

  これらの表現を見てわく疑問として、例えば日本語には主語が文法的に強制されないという性質がありますよね。これはなぜでしょうか?あるいは、「私は星をみる」というのが自然ではないのはなぜでしょうか?ほかにも、英語では受け身になっているのに、日本語では自動詞になっている、これはなぜでしょうか?また、"Where am I?"は直訳すると、「私はどこ?」になりますが、「ここはどこ?」が自然な気がするのはなぜでしょうか。

 気になる方は是非、池上(2006)を読んでみて下さい。きっと、目から鱗ですよ。

  最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

 

ウニはおいしい?形容詞の背後にある行為

1.導入

 みなさんはウニは好きな方ですか?私はどうも苦手なままです。それからトマトもおいしいとは思えない派の人間です。こう言うとたまに「えー、おいしくない?」と言われることがあります。

 こういったやりとりに覚えのある方は、是非続きを読んでみて下さい。今日は、形容詞のお話です。形容詞と言えば、修飾する名詞の属性とか性質を表す、と言った理解が一般的だと思いますが、この記事を読むと形容詞の新たな一面が見つかると思います。

(今回の話は本多啓(2005)『アフォーダンスの認知意味論 生態心理学から見た文法現象』,本多啓(2013)『知覚と行為の認知言語学「私」は自分の外にある』を参考にしています)

2.探索活動

 何かを見るという行為は、一見「刺激の受容」といった受動的な行為だと思われているのではないでしょうか。

 では、例えば、目をつむって手のひらに乗せられた物体の形を把握しようとしたら、どうするでしょうか。きっとその物体を撫でたり、なぞったりするのではないでしょうか。この「撫でる」や「なぞる」というのは自分の身体を積極的に動かすという意味で能動的な行為といえますね。このように何かを知覚するときには自分自身の能動的な行動が必要になることが分かります。

 実は最初にあげた「見る」という行為も能動的な面があります。視覚による知覚を行なう際にも対象の輪郭に合わせて視線を動かすという能動的な行為が必要になっているのです。

 こういった知覚をするために必要な知覚者の能動的な行動を探索活動と言います。ここで、探索活動に関する心理学の研究を紹介します。

 例えば、人間の赤ちゃんは歩けるようになる前から視覚で断崖があることを知覚できるらしいです。しかし、この断崖を怖がるようになるのは自分で歩くことができるようになってからという報告があるそうです。つまり、自分で歩くという能動的な行為ができるようになって初めて恐怖を抱くようにわけですね。

3.形容詞と探索活動

 言語学の専門家の中にも探索活動に関連して言語を分析するようになった人がいらっしゃいます。ラネカーという研究者が形容詞について次のようなことを言っています。

Ultimately, I believe that most if not all adjectival properties are best characterized with respect to some activity or process involving the entity ascribed the property.What varies is how specific and how salient that process is.(究極的には、大体の、全てとは言えないかもしれないが、形容詞の特性は、その形容詞の特性を付与された実体に関わる何らかの活動やプロセスに関連した形で、特徴付けられる。形容詞によって違うのは、どのくらい特定的か、そしてどのくらい際立ってるかである。)

私の日本語訳がキモいので、本多先生の要約を引用しておきます。

すべてとまでは言えるかはどうかはともかく、ほとんどの形容詞の意味構造に、その形容詞の表す属性の持ち主となる事物が関わる行為ないし過程が存在しているということである。そしてその過程がどれほど特定的なものであるか、そしてどれほど気づかれやすいものであるか、ということが個々の形容詞によって異なっている

 例えば次の文を見てみます。

・堅い表面

 この「表面」が「堅い」という性質を知るには、私たちはその表面をなぞったり触ったりしてみないといけません。これが形容詞の意味の背後に、事物が関わる行為が存在しているということです。

 例えば英語には次のよう表現があります。

This book is easy to read.(この本は読みやすい)

 readは形容詞の背後にある探索活動を明示的に表した表現であるという分析がされています。読んでみて、簡単だったということですね。

4.で、ウニはおいしいのか?

 ここまでの話から、「おいしい」という形容詞の意味の背後には「食べる」とか「味わう」という行為があるということが想像できます。つまり、「おいしい」というのはその食べ物の特性であると同時に、その人が食べてみて知覚した感覚でもあるということです。なんだか当たり前の話をしていますが。

 私がこの話を知ったときに思ったのは、物事の性質を語ろうとするときに、ある程度、私情みたいなものが入り込んでくるということです。だから、物事の善し悪しとかを考えてるときに、これは私にとっては良いこと、私にとっては悪いことみたいな意識を常に持つようになりました。

 別の例をあげれば、数学が苦手な人にとっては、漸化式が難しいでしょうし、英語が苦手な人は、リスニングが速いと言うかもしれません。

 本多先生の本には、こういったことを端的に世界を語ることは自分自身を語ることだと書かれていました。

 結論、ウニはおいしくない。

努力か才能か論争をしてみて

1.導入

 私も、友人と努力か才能か論争をしてたことがあります。みなさんも一回くらいはあるのではないでしょうか。

 今回は努力か才能か論争をしてみて私の考えたことを紹介します。たまたまピンカーの『21世紀の啓蒙』を読んでいたら似たような考えをしている人がいるらしいことが発覚したので、併せて紹介します。

2.結論

 私の「人は努力か才能か」という問いに対する結論は、そんなものは心理学か生物学などを勉強すればよい、というものです。

 もともと私は、努力サイドにたっていました。ただ、才能サイドの友人の話を聞くと、説得力のある根拠に基づいたものでした。しかし、自分で結構自分が努力してきて、それで今の状態があると思っていたので、うーんという感じになってしまいました。

 そこで、私はおかしな考えをしていることに気付きました。これは「人は努力か才能か」という問いに対して答えを出そうとしているのではなく、どっちを信じて生きていたいかということを言い合っているだけでは?ということです。科学的に事実を知りたいのであれば、私たちの経験則より積み重ねられている科学的知見の方を参照すべきです。しかし、明らかに私たちはそういう文脈で論争をしているのではありませんでした。つまり、この問題は科学的事実の問題ではなく、単にイデオロギーの問題だったのです。

3.何のために信念を表明するか?

 ピンカーの『21世紀の啓蒙』(下)p242から、ダン・カハンという人の議論が参照されています。(孫引きがよくないのは重々承知ですが)

 それによると、「人が何らかの信念を肯定したり否定したりするのは、自分が何を知っているかではなく、自分が何者かを表明するため」だとされています。また、自分がどういう信念を持つかということは所属する手段のメンバーからどんな人物だと思われるかということに密接な関わりを持つことも指摘されています。一風変わった考えを披露するときは、ドン引きされたりしないかなとか心配しますよね。

 つまり先ほどの議論は、自分が何を考えているかを明らかにするというのは、自分がどんな人物かというアイデンティティの問題に密接に関連するということです。最初の例に戻れば、私は努力論を信じてきたから、世界をそれに則した形で理解しなくては自身のアイデンティティを保つことが難しくなるということです。

 それ故、努力か才能か論争についての私の結論は心理学か生物学などを勉強すればよいとなりました。私の経験した議論の形式として、この問題は事実に関してではなく、信条について揉めていたことになります。でも、信条はその人の自由ですから、他人がとやかく言うことではありません。

4.議論についての教訓

 今回のできごとを経験して、議論をする時に次のことに注意しないといけないと学びました。それは、自分も相手も何のために自分の意見を正当化しようとしているのかを意識するとよいということです。つまり、自分がその意見を通すことで何を可能にしようとしているかということを一度考えてみるといいかもしれないということですね。

 私の場合はお互いがお互いの信条を保つという目的を持っていたことになります。それはそもそも共通の目的に対して議論を展開しているわけなので、平行線になってしまいました。

 

今回は以上になります。最後まで読んで頂きありがとうございました。

太宰治「黄金風景」を読む

 1.導入

 私は太宰治の小説がとても好きなのですが、中でもお気に入りなのは「黄金風景」です。青空文庫でも読めるし、短い小説なので、よかったら読んでみて下さいね。『黄金風景』太宰 治 ◀ えあ草紙・青空図書館(無料・縦書き) (satokazzz.com)

 今回は私なりの読みを書いて置こうと思います。👆を読んで、解釈の突き合わせという感じで楽しんで頂けるといいかなと思います。

2.「黄金風景」の主題・構成

 この作品の主題(テーマ)は<求められる自身の敗北の是認><その葛藤と調和>です。

物語の構成としては

a.回想

b.家を追い出される

c.お巡り(お慶の夫)登場

d.お慶の家族登場

e.敗北宣言

となるでしょうか。順に読んでいきます。

a.回想
  1. 私は子供のときは、余り質のいい方ではなかった。
  2. おい、お慶、日は短いのだぞ、などと大人びた、いま思っても背筋の寒くなるような非道の言葉を投げつけて
  3. たしかに肩を蹴った筈なのに、お慶は右の頬をおさえ、
  4. いまでも、多少はそうであるが、私には無知な魯鈍の者は、とても堪忍できぬのだ。

 これらの表現には、自身の悪行・悪性を認める一方で、自身の過去の行いを擁護したいという思いがにじみ出ています。例えば、1の「余り質のいい方ではなかった」というのは「余り」という程度副詞が使われていますし、質の悪いとは言わずに、「質のいい方ではない」という否定を用いた語り方をしています(「は」が使われているのもポイントかもしれません)。3にも同様の葛藤が見て取れます。肩を蹴った筈なのに、実際には頬を蹴っていたことを匂わせるわけですが、自身の実際の行為は自分の心積もり以上の邪悪さを持ち合わせていたのだと片隅で気付いているのではないでしょうか。

b.家を追い出される
  1. 私は家を追われ、一夜のうちに窮迫し、巷をさまよい、・・・病を得た
  2. 私の頭もほとほと病み疲れていた。

 ここで、私が現在は家を追い出された身であることが明らかになります。加えて、病気になっているようですね。この追放は自身の無力を際立たせる働きをしています。家の中であれば、女中という立場であったお慶に強く出ることもできたのでしょうが、追放されてしまってはただ窮迫した個人になってしまったと。

c.お巡り登場
  1. 「おけい?」
  2. のろくさかったひとりの女中に対しての私の悪口が、ひとつひとつ、はっきり思い出され、ほとんど座に耐えかねた。
  3. 私は言い知れぬ屈辱感に身悶えしていた。
  4. 「子供がねえ、あなた、ここの駅につとめるようになりましてな、・・・」
  5. 「お慶も、あなたのお噂、しじゅうして居ります。・・・」

ここのお巡りとの会話で、お慶のことを思い出します。恐らく、時系列的には最初の回想の場面につながるのでしょう。この辺りの会話から、このお巡りはお慶の夫であることが推測できます。そして、お巡りは今度お慶を連れて来ようと言い出します。

d.お慶の家族登場→e.敗北宣言
  1. お慶は、品のいい中年の奥さんになっていた。八つの子は、女中のころのお慶によく似た顔をしていて、うすのろらしい濁った眼でぼんやり私を見上げていた。
  2. 負けた、負けた、と囁く声が聞こえて、
  3. 見よ、前方に平和の図がある
  4. 「頭のよさそうな方じゃないか。あのひとは、いまに偉くなるぞ」
  5. 「あのかたは、お小さいときからひとり変って居られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すった」
  6. 負けた。これは、いいことだ。

 私はお慶の家族を前にして逃亡しますが、「負けた、負けた、と囁く声が聞こえて」きます。そして海岸の家族を見つけたところで、「見よ、前方に平和の図がある」と語られます。この部分では、負けたと囁かれているので自分自身の発言ではないと考えられます。また「見よ、前方に平和の図がある」も命令文が使われており、ここでも自分ではない誰かがそのように命じているように語られます。しかし、最後には「負けた。これは、いいことだ。」と独白するような文になっており、先ほどまでは別の人格として分離していた敗北を認める精神が私と調和したと言うことが読み取れます。

 4や5は私の一人称で書かれている都合で若干解釈が悩ましく、皮肉として解釈するか、それかお慶の器が大きくなって本心からそのような発言をしていると解釈するかで決め手に欠けました。そして、お慶が夫に女中時代のことをどのように語っているかも明らかにされていませんので、お巡りの発言も皮肉なのか本心なのか読み取りかねるところです。

 ただどちらにしろ、「かれらの勝利は、私のあすの出発にも、光を与える。」とあるので、これは私の成長の可能性を示唆していると言えるかもしれません。皮肉であれば、お慶の勝利を鮮明にする言葉となりますし、本心であれば、私の可能性を言及していると解釈できますから。

3.まとめ

 回想の語りから、自分が勝者であってはいけないと葛藤する私の姿が読み取れます。しかし、自分の敗北を宣言することは難しく、その葛藤は解消されないままでした。しかし、お慶一家の平和の図を「見よ」と命じられることで、私は「負けた。これは、いいことだ。」と自分自身でその敗北を引き受けることができるようになります。

 以上のことから、本作の主題は<求められる自身の敗北とその是認><その葛藤と調和>と読みました。

 

また、小説の考察は書こうと思うのでよかった読んで下さい。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

グレーゾーンについて(表現の自由と誹謗中傷)

 1.導入

 少し前、SNSでの誹謗中傷が原因で自殺された方がニュースで取り上げられていましたね。そこでSNS上の誹謗中傷を取り締まるか、表現の自由との線引きをどうするかみたいな議論があった気がしますが、持論を書いて置こうと思います。

 ポイントはグレーゾーンの線引きより重要なことがある、ということです。

2.問題はグレーゾーンか?

 この手の問題でもめるのはグレーゾーンの線引きでしょうね。この事例は白か黒か。その理由、基準は何か。これはこれで法の実務的な問題として解決されなければならないというのは分かるんですけど、この問題は結局、個別の事例の議論を積み重ねていくしかないのではないかという気がしています。(法学を勉強したことがないのでよく分かりませんが)

 ただ、グレーゾーンの線引きをどうするかというのは、一番重要な問題ではないのでは?と思っています。最優先すべきは、明らかに黒い事例を取り締まれるような手続きを整備することなのではないかと思います。

3.色のメタファー

 法律の線引きに色のメタファーを使うのが適切かどうかというのは、判断しかねるのですが、ひとまずそれはおいておいて下さい。

 色というのは光のスペクトルで、連続体をなしています。つまり、どこからが黒でどこからが白かという区別をしようとすると、それは究極的には根拠を持たない恣意的な線引きになってしまいます。しかし、これは黒と白という領域の区別が存在しなくなることを意味しません。

 敢えていうなら、「明らかに黒」「これは白か黒か微妙だねという判断できる領域」「明らかに白」という領域に分かれると思います。この「どっちか分からないという判断ができる」というのがグレーゾーンにあたります。

 このグレーゾーンの線引きをどうするかというのは、先ほども書いたように、個々の事例ごとに議論を尽くして、それを積み重ねるということをする以上のことはないと思いますが、線引きが曖昧だからと言う理由で、「明らかに黒」に分類されるような事例を取り締まれないというのは、おかしな話だというのが私のお気持ちです。

 例えば「こいつの話、意味分からんwww」はグレーゾーンかと思いますが、「ゴミ、くず、死んでしまえ」はさすがに黒というイメージですね。グレーゾーンを最大限広く見積もっても、明らかに黒い領域は存在するでしょう。(もちろん、文脈にも依るんですけど)グレーゾーンは最大限広く見積もっておくというのもポイントかと思います。

好きな女はゲシュタルト

1.導入

 みなさんはゲシュタルトという言葉をご存じでしょうか。ゲシュタルト崩壊という言葉は幾分人口に膾炙した感がありますが、正確な意味をご存じない方もそこそこいらっしゃるのではないでしょうか。

 今日はそのゲシュタルトと好きな女性(筆者は男性のため)との共通点を見つけたので書いて置きます。

2.赤い家の意味は?

 コトバンクを見てみますと

部分からは導くことのできない、一つのまとまった、有機的・具体的な全体性のある構造をもったもの。(ゲシュタルトとは - コトバンク (kotobank.jp))

とあります。

 こんな例を考えてみて下さい。

①赤い家

もし、言葉の意味が各要素の足し算で分かるのなら、①の意味は赤い+家となるでしょう。

 しかし、①のデフォルトの解釈としては赤いのは屋根であることを想像される方が多いのではないでしょうか。

 あれれ~、おかしいぞ~、①が「赤い+家」の足し算だとしたら、赤い部分が屋根であることを指定する要素はどこにあるんだ~?という感じで、「赤い家」という言葉の意味を赤い+家という足し算で導き出そうとすると、ちょっと怪しくなるわけです。

 そこで、「赤い家」は全体として、その部分に還元できない意味を持っていると考えることができるわけですね。

(ゲシュタルトの例は仮現運動とかが言及される場合が多い気がしますが、筆者が認知言語学をやっていたという都合でこの例になりました。)

ポイントは部分に還元できない全体ということですね。

3.なんで彼女が好きなの?

 恋人の推しポイントが明確な人もいるかもしれませんが、よくわからんけど好きなんだとか、いや好きなことに理由なんてないねとか、思う人もいるんじゃないでしょうか。例えば、恋人の顔が好きとか、匂いが好きとか、優しいところが好きとか、色々あるでしょうが、敢えて「好きな理由はそれだけ?」と問いかけられたら、「いやこれだけじゃない」と言ってしまいたくならないでしょうか。

 好きな理由を言い尽くすことはできない、好きだから好きなんだ

こういった特性はまさしくゲシュタルト(部分に還元できない全体)だと思います。これは別に恋人に限った話ではなくて、好きなものの中には好きな理由を言い尽くすことが難しいものが結構あるんじゃないかと思います。あるいは好きな理由がよくわからないとか。

 最近は還元的な思考に結構需要があるようですが、言い尽くせない、という性質を持ったものは自分が大切にしたいものだったりするのではないかと思っています。

Twitterで誹謗中傷が起きるのは(似非言語学的考察)

1.導入

 私も少し前まではTwitterをしていました。見る専でしたが。

 ただ魂削れてるなと感じることが多くなったのでやめてしまいました。例えば喧嘩じみた会話がたまに目に入ったりすると、我が身に関係ないだろと思いつつも勝手に消耗していました。

 こういう喧嘩じみた会話や誹謗中傷が起きるのはどうしてなんだろうと思い、たまたま言語学の研究から1つ面白い考察ができそうだったので書いて置きます。

2.人から聞いた話では

 私がよく見ていたYoutuberの方で、やや炎上気質な方がいらっしゃたのですが、その人が言うには、「みんな画面の向こうに生きた人間がいることを忘れている」というのが誹謗中傷が横行する理由なんじゃないかと仰っていました。

 これはこれで説得力のある説明なんですけど、忘れていると言うよりTwitterでの「呟く」という行為がそもそも「誰かに向かって何かを言う」という構造を持っていないということなんじゃないかというのが私の発想です。

3.発話の構造と呟き

 私が昔読んだ論考で、そもそも発話(何か言葉を発するという行為)というのはどういう構造を持っているんだろうね?ということを論じているものがありました。それによると、発話にはこんな構造があるのだそうです。

「私が」「あなたに」「何かを」「言う」

いや、当たり前やんけと思われそうですが(苦笑)

 勘のいい方ならこのあたりで気付かれそうですが、私の考えではTwitterにおける呟くという行為は、「あなたに」と言う部分が空になっているわけです。そりゃそうなんですよね、だって呟きですから誰かに向かって言うわけではないんです。

 誹謗中傷の場合は、呟くというより「悪態をつく」みたいなものに近いのかもしれませんが。例えば、事故りそうになって、過ぎ去った車に対して「危ねえな、おい」と言う時のように、運転手に伝えたいわけではないけど、罵らないと気が済まないという感じで。

4.結局、誹謗中傷をする人間も普通の人かもね

 確かに匿名性を利用して個人に攻撃をすることを目的にしている人もいるとは思います。ただ、誰かを傷つけた言葉がすべて傷つけたその人に向けられたものとして発せられたものなのか、というのは微妙なところなんじゃないのかと私は思います。

 では、意図していない誹謗中傷は容認されるか?という疑問もわきますが、それはまだ考えたことがないのでよく分かりません。考えがまとまったら記事にするかもしれません。少なくとも、私は自分のことを、Twitterで誹謗中傷している人を咎めることができるほど偉い人間だとは思えない、ということです。